キャンパス・セクシュアル・ハラスメントとは何か
 「自由恋愛もSHである」を考える

 以下の文章は、2003年2月20日(金)に小樽商科大学にて行った講演録に手を入れたものです。最近、教育の場におけるSHに関することが、よくわたしの耳に入ってくるようになりましたので、関係者にしっかりと考えていただきたいと思い、HP上で公開することにいたしました。


目次
今、なぜSHが問題なのか?
大学にとってのSHの脅威
SHとは何か
SHを生み出しているもの・性の二重基準
SHを生み出しているもの・教師の権力
二次被害を回避するために
展望を拓く・第三者機関について

参考図書:沼崎一郎『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント対応ガイド』嵯峨野書院(2001年)



今、なぜSHが問題なのか?

 はじめまして、こんにちは。わたしは、愛媛大学で労働法政策を教えています、笹沼朋子といいます。今日、こちらに招かれましたのは、おそらく、数年前にセクシュアル・ハラスメントの被害者として活動していたことをこちらの片桐先生が知っていたからだと思います。片桐先生とは、研究会等でよくお世話になっており、その際、わたしはいろいろと愚痴をこぼしていたものですから。
 今、わたしはセクシュアル・ハラスメントの被害者であるといいましたが、まあ、これには具体的な事件がいくつもあるのですが、そのように自分をきちんと定義できるようになるまで、ずいぶんな時間が必要でした。同様に、思い起こせば、かれこれ20年も昔、わたしが学生だったころ、先輩などとの恋愛問題でずいぶん悩んだものですが、それらは、今になってみれば、ああ、あれはセクハラだったんだなと思うことができるようになりました。ある私法の先生は、ゼミ生の女性と恋愛関係に陥るのが常であるという噂がありまして、それだけならまだしも、それを男子学生はまねしたがるわけです。1年生の女性に勉強を教え、なおかつ肉体関係に至りたいと思うわけですね。そうした環境が、わたしの学生生活でした。また、わたしが浪人して予備校に通っていたころのことです。夏休みに高校の同窓会があったのですが、そのとき、一足早く某短大の音楽科に通っていた女性がこういっていました。「2年生は、みんな誰か先生の愛人になるんだよ。だから、わたしたちはみんな愛人予備軍なの」。実に明るく、実に無邪気に語ってくれました。当時は、わたしは本当に奥手でしたから、目を白黒させてびっくりしてしまいました。でも、今は、その音楽科って、愛人を囲えるほど、そんなにお給料がいいんだ〜〜とびっくりしてしまいます。(これが、学生たちの根も葉もない噂話であると信じていますが。)
 つまり、20年も昔には、セクハラなんて全然問題にならなかったわけなんですが、今、それが、こんなにも大変なこととして騒がれるようになりました。なぜでしょうか。今日は、ここからお話をスタートしたいと思います。なぜ、たわいもないこととされていたことが、こんなに大きく取り上げられるようになったのだと思いますか?
 みなさんが心のなかで思っていることそのままです。おんなが強くなった、からです。どう強くなったかといいますと、第一に、武器を手にしたんです。その武器とは、セクシュアル・ハラスメントという言葉です。この言葉がなかったころは、なんといっていいかわからないのだけど、「生徒とセックスしたりして、その関係がこじれてその生徒がノイローゼになったので、先生はひどいと思うよ」と、状況を説明することはできますが、訴える根拠がはっきりしませんでした。ですから、訴える際も、時として婚姻不履行を理由として訴えることを提案する弁護士がいたくらいです。この婚姻不履行とは「セックスしておいて結婚してくれないなんてひどい」という意味ですね。つまり、でも、セクシュアル・ハラスメントは「セックスしなければ、勉強を教えてくれないなんてひどい」という意味です。いずれもセックスが介在しますが、婚姻不履行の場合はこの関係を持続させたいという思いが女性にあります。他方、セクシュアル・ハラスメントの場合には、最初からこの関係は不当だという思いが女性にありますから、訴える側からみれば、ぜんぜん異なるものです。
 
 訴えるにしても、被害者の気持ちにピタっとする言葉がなければ、訴えてもあまり効果があがりません。それで、女性はずっとおとなしかったのです。なぜ、言葉がなかったといえば、それは簡単ですよね。法曹界にも学会にも大学にも立法府にも内閣府にも、法律の言葉を作る女性はおらず、もっぱら男性が言葉を作ってきたからです。あるいは、女性が原告として一人で提訴できるようになったのも、ついこの前のことではないですか。
 では、どうやって言葉ができたかといいますと、それは、女性たちが、被害者として訴えを起こすだけではなく、NGOなどさまざまな活動を通じて、その被害者たちを支援するようになり、こんなことはひどいひどいと連呼し、あるいは法理論を作る法律家の女性があらわれ、そうして、やっとのことで、社会がそうした女性たちの被害を認めるようになり、それで、ようやく女性が蒙っているさまざまな被害に名前がつくようになったのです。そうやって出来上がった言葉にはセクシュアル・ハラスメントもありますが、最近ではドメスティック・バイオレンスという言葉もありますね。つまり、このような言葉の歴史をみていきますと、女性が言葉という武器を手に入れることができるようになったのは、女性が広く連帯しているからだということが分かります。セクシュアル・ハラスメント、あるいは、ドメスティック・バイオレンス。いずれもカタカナなので、外圧によって日本に輸入されてきたと思っている方も多いと思いますが、むしろ日本の女性たちが外国の女性たちと強い絆で結ばれている証拠なのです。
 今、被害者は当然女性であるかのような表現を使いました。でも、男性も被害者になる可能性はありますし、女性が加害者となる場合も少なくありません。ただ、傾向として、男性が加害者になり、女性が被害者になることが多く、またそれだからこそ、この現象は名前を持たないで長い間、救済されなかったのです。では、なぜ女性が被害者となるのかといえば、そこには性の二重基準があるからですが、それについては、後述することにしましょう。


大学にとってのSHの脅威

では、次に、なぜ、セクシュアル・ハラスメントが大学にとって有害なのでしょうか。もう、これはお話するまでもありませんよね。大学にセクシュアル・ハラスメントがあると、学生、特に女子学生はその大学を選ばなくなるからです。この数年、数十年かな、日本では少子化ということが問題になっていますが、その結果、ほとんどの大学では女性の入学者が大幅に増えていますね。両親がわたしを大学に進学させたのは、大学を出ていたほうがいいところに嫁に行けると考えたからなのですが、実際にはわたしは、その期待はみごとに裏切ったのですが、そう考える人は少なくない。ですから、こどもが多ければ、女の子は短大でいいよということになるかもしれませんが、こどもが少なくて経済的にも余裕がでてくれば、嫁にだすためにも女の子も大学にやろうとするのが親心らしいです。わたしの出身校は早稲田の法学部ですが、わたしが卒業したころは35人のクラスで女性が3人で、これは多いほうでした。今は、10人くらいはいるんじゃないかな。そして、わたしの現在の所属学部学科は、わたしが勤務している6年間で男女の比率がみごとに逆転し、今は圧倒的に女子学生の方が多いです。これからは、もっとこどもは減るわけでして、もはや、女子学生ぬきで大学の経営は考えることができません。
 そして、女子学生は、やはり、セクシュアル・ハラスメントが怖いと思っています。何がセクシュアル・ハラスメントなのか理解しているわけではないのですが。ただ、就職するときに、セクハラが怖いと思うという学生がかならず何人かいるのです。もっと深刻なことに、彼女たちのスポンサーである両親たちは、セクシュアル・ハラスメントがあるような学校に彼女たちを入学させたくないと思うでしょう。 この点、キャンパス・セクシュアル・ハラスメントは、職場におけるセクシュアル・ハラスメントと状況を異にしています。職場における場合は、セクシュアル・ハラスメントは社内の問題です。他方、キャンパス・セクシュアル・ハラスメントとは、お客さんに対する暴力になのです。これは大学にとってとても大変な問題なのです。2004年には、わたしたちは独立行政法人となりますが、これからは十分に注意が必要です。
 さらに、さきほど言いましたように、おんなはずいぶん強くなりました。一人一人は非力なのですが、連帯するという知恵をつけたわけです。実は、昨年、愛媛大学でかなりひどいセクハラがありました。ですが、愛媛県には女性の団体ってないので、全国レベルで問題となることはありませんでした。ですが、ここ、北海道は違います。みなさん大変ですよ。北海道には全国でも有名なネットワークがありますから。


SHとは何か

 では、そのセクシュアル・ハラスメントとは何なのでしょうか。こうたずねられて、均等法や人事院の定義などを持ち出さないでくださいね。
 今日は、参考図書を掲げさせていただきました。この本は、かゆいところに手が届くようなとても親切な本です。その本に、セクハラとは、「性的ないじめ」であると説明しています。とてもいい定義だと思います。女性のおしりをさわるのは、コミュニケーションではなくて、いじめなんですよ。でも、わたしが学生たちにセクハラって何かを教えるときには、「セックスしなければ、勉強教えてもらえない、単位をくれないなんてひどい」という学生の気持ち、あるいは「セックスしなければ、仕事ができないなんてひどい」という従業員の気持ちと定義しています。セックスに耐えるとは、文字通りの性行為ばかりではなく、ああ、でもお尻を触られるというのは、これは性行為の一種ですよ。性的な環境の中で恥ずかしい思いをしたり、侮蔑的な思いをしたりすることを含みます。そんな思いをしなければ、仕事をくれない、勉強ができない、そういうことですよといいます。ゼミで猥談を聞かされる、研究室にポルノポスターが貼ってある、あるいは、きれいな女の子ばかりをひいきする。そんなものも含みます。そうしますと、ときどき「だれそれ先生は、ぼくは嫌いな人には単位はあげないと、講義のときに公言したのだけど、これってセクハラぽい」と言いつけにくる学生もでてきます。状況がわからないので、なんともいえないのですが、「ぽい」ではなく、セクハラそのものです。ぼくが好きになるように振舞わなければ、単位はあげないというのですから。ちなみに、こういう苦情を聞いたときのわたしは、「セクハラ対策の相談員のところにチクッてやりなさい」とアドバイスします。ねえ、こういうことがネットワークなんですが、こわいでしょう。

 なぜ、わたしがこの表現(「セックスしなければ、勉強教えてもらえない、単位をくれないなんてひどい」という学生の気持ち、あるいは「セックスしなければ、仕事ができないなんてひどい」という従業員の気持ち)を使うかといいますと、この表現だといわゆる不倫とか自由恋愛というものの説明がわかりやすいからです。セクハラの深刻なケースになればなるほど、加害者の男性は「これは合意の上だった」とか、「彼女とは恋愛関係にあったのだ」という抗弁を使うようになります。でも、不倫の9割はセクシュアル・ハラスメントです。
 わたしがよく取り上げる例は、林葉直子と中原十段の例です。お師匠である中原は、林葉直子と会うたびにホテルに誘っていたらしいのですが、それを2000年くらいになって暴露しています。これを報道各社は不倫として取り上げていますが、典型的なセクハラですね。あるワイドショーでは、彼女の姉にインタビューしていますが、姉は「彼女は、当時、先生と会うと必ずホテルに誘われるといって泣いていました」と証言しています。そして、その関係を絶つかのように、林葉直子は将棋の世界を早くに引退しています。つまり、師匠のセックスにつきあっているうちは、将棋ができて、将棋を教えてもらえ、そこで仕事ができた。彼との関係を絶つためには、仕事を捨てなければならなかったという関係です。不倫の多くは、こういう関係ではないですか?仲良ししているうちは、自由恋愛なんて言ってみてもいいかもしれません。でも、愛人である部下や生徒が関係を絶とうとしたとき、あるいは不倫相手の上司や教官が家庭に帰ろうとしたとき、仕事や学業に影響はでませんか?通常は、部下や生徒である女性が男性の下を去ることによって、つまり、女性が自分の仕事や学問を変えることによって、不倫関係が終わるのではないですか?セックスの切れ目が仕事の切れ目になっているわけです。多くの場合、女性の仕事だけが変わり、上司の仕事は変わることがなかったりしますので、これは女性にとってのみ、セックスの切れ目が仕事の切れ目になるわけです。
 林葉直子は逆境に負けない力をもっていますので、いまも元気に仕事をしていますが、こうした不倫関係、あるいはセクハラ関係と言い換えてもいいのですが、その中で、命を落とした女性は少なくありません。わたしがこの職業についてから、そうした女性を少なくとも二人知っています。愛媛大学の保健管理センターの先生に聞いたのですが、現在、大学にとって至上命題は、「自殺者を出さない」ことなんだそうです。それだけ大学における自殺が増えているということです。セクシュアル・ハラスメントで学生が命を落とした、ということになれば、これはスキャンダルでもありますが、教育という事業を行っている組織として、こんなに悲しいことはないではありませんか。

 今日、ここにご紹介していますこのマニュアル本には、「もし、学生と恋に落ちたら、道は二つです。教員を辞職して恋愛を続けるか、それとも教員である限り恋愛をしないか、どちらかしかありません」とさえ、言っています。
 なぜ、学生と教師との自由恋愛は存在しえないのでしょうか。いえ、わたしは存在しうると思います。ただ、自由ではない場合がほとんどで、もしも自由恋愛があったとしても、それが本当に「自由」なのか、誰にもわからないのです。当事者でさえ、分からない、混乱していると思います。なぜなら、学生と教師との間には、対等な人間関係がないからです。分からない以上、もうこれはやめておいたほうがいいと思うのです。


SHを生み出しているもの・性の二重基準

 そのことについてお話するために、セクシュアル・ハラスメントを生み出している社会的要因についてお話を進めさせていただきたいと思います。まず、先ほど、なぜ男性の加害者が多くて、女性の被害者が多いかというと、そこには性の二重基準があるからであると言いました。これは、簡単に言いますと、そこに書いてありますように、「男性は性に積極的であるべきで、積極的であるものだ」、逆に、「女性は性に消極的であるべきで、消極的であるものだ」という刷り込みがあるということです。たとえば、性の体験は、男性にとっては快挙ですが、女性にとってははしたない、恥ずべきものとなりますよね。最近では少し変化がありますが、男性の初体験についてはほほえましく、好ましいこととして語られる一方、女性の初体験については、眉間にしわをよせるようなこととして取り上げられるわけです。現在、状況が変わってきていますので、女性だってセックスに対して積極的だよという意見もありましょう。でしたら、マスターベーションではどうですか?男性のマスターベーションについては、みんなお話するでしょう、結構楽しいこととして。でも、女性のマスターベーションについてはどうでしょう。「ゲッ!」ではないですか?でも、マスターベーションとは、女性だって健康であれば、ふつうにする行為の一つなんですよ。つまり、マスターベーションについては、男性にとっては健康そのものなのに、女性にとっては変態扱いです。まさしく、これが、性の二重基準なのです。
 そして、わたしが大学に入学したころは、この現象がはなはだしく、週刊誌等で「昨今の女子大生は、ほとんどセックスをしている」と、女性の性体験について新聞やつり革広告に取り上げられたものです。この表現それ自体が侮辱的なのですが、それよりも困ったことに、この週刊誌の広告を見て、娘を持つ多くの親が、自分の娘を大学に進学させない、少なくとも一人暮らしをさせないという決意を新たにしました。わたしもその被害にあった一人です。つまり、女子学生を週刊誌紙上でセックスの対象として書き、そのことによって学業に影響を与え、女性の人生に大きな打撃を与える、これはセクハラの典型なのです。もし、これが息子だったら、どこかの風俗店に行ってでも、セックスしてくるのは当たりまえ、「そうかそうか、お前も大人になったか」と、こういうことになるわけです。

 話をすすめますと、この性の二重基準により、男性は女性に対して積極的にアプローチして当たり前だし、極端な話、レイプしてもほめられるものなのです。逆に、女性は言い寄ってくる男性に対してあくまで拒否すべきものとされ、レイプされても女性に否があるかのように非難されるわけです。「性暴力について、男性には否がない、すべては女性の責任である」このメッセージがセクハラを生み出す最大の要因といえます。特に、社会経験の少ない学生同士の関係においては、このメッセージが思っている以上に強く働いています。この点について、よく「最近の女子大生の服装ときたら露出度がひどく、あれじゃあ、レイプされてもしかたがない」という先生方がいます。でも、それは間違いです。たとえ、女性がすっぱだかで歩いていたとしても、その女性は誰からもレイプされるいわれもありません。彼女の身体はそれだけで神聖で不可侵のものですから、誰も彼女をレイプする権利はないのです。そう考えれば、それが当たり前なのですが、うっかり女性の側を非難してしまいます。それが、性の二重基準で、これは性差別なのです。


SHを生み出しているもの・教師の権力

 次に、教師と学生との関係についてお話しなければ、なぜ、不倫、自由恋愛もセクハラなのかがわかりません。わたしたちは、教師は学生を事実上支配するものであると考えています。つまり、教師は学生に言うことを聞かせるだけの力を持っているというのです。このことを社会心理学の言葉では、社会勢力を持つというらしいのですが、その説明は、この場合に分かりやすいと思いましたので、そこに書いておきました。これは、沼崎さんの本の受け売りです。わたしたち教員をはじめとする大学関係者は、学生に対して単位を与え、あるいは処分を下す立場にありますから、報酬勢力を有し、強制勢力を有しているということはよく分かりますし、そうした関係にあるので、学生は教員のセクハラに捕まってしまうといわれてきました。でも、たったそれだけで、つまり単位がほしいというだけで、学生や院生が教員のセクハラに耐えるとは思えません。わたしたちが学生の時代には、こと単位取得に関しては、教員の裏をかくようなことをたくさんやってきたはずです。ですが、その先、正当勢力と参照勢力、そしてエキスパート勢力の説明を見ますと、そう、そう、そうなのよ〜〜!と思います。大学の教官には、こうした手本として、専門性を持った者としての地位と力が備わっているのです。京都大学の矢野暢教授のセクハラ事件の判決を読みますと、後に秘書となる被害者は彼を尊敬し、話を聴いてもらうためにホテルの一室に入ります。そのうちに、教授は裸になると、「わたしが服を脱いでいるのだ、君が服を着ているなんて失礼ではないか」と怒鳴っています。まあ、ここまで極端な例は珍しいのと思いたいのですが、「これが学問の世界である」と教授が言えば、そうなのかなあ〜〜と思わせるだけの力があるということなのです。
 つまり、もっと簡単にいいますとわたしたちには、さまざまな力があり、学生たちは容易にわたしたちに惚れて、おぼれて、それでわたしたちの言いなりになる可能性があるわけです。いえ、本当に教員をまじめにやろうと思えば、そのくらいの能力を発揮すべく努力するべきです。学生のために、学生にとって本当に必要であると信じることを学生に教え、学生にそれを理解してもらうためには、学生が納得し、学生が心底そのとおりだと思うようわたしたちは、さまざまなパフォーマンスを行います。それが、教師の仕事です。東京大学の上野千鶴子先生が、教師とはサービス業であると言い切っているゆえんです。と、するならば、わたしたちは魅力のある、手本となるべき人間として存在する必要があるのです。
 つまり、わたしたちの仕事はアイドルなんだということができます。アイドルのごとく、学生を喜ばせる必要がある。それがわたしたちの仕事です。そして、大学の職員のみなさんは、芸能プロダクションであります。そこで、アイドルなら、お客とデートしたり、寝たりすることもあるでしょう。もう、なんでもアイドルの意のままです。そうした力がわたしたちにはあります。
 ファンがそのアイドルに惚れたり、好いたりするのは、これはファンの権利です。なぜなら、アイドルは惚れられ、好かれるために存在し、それを商売にしているのですから。教員という言葉で置き換えますと、手本にされ、新しき世界へと導くことを商売にしているのが、わたしたちの仕事なのですから、学生は、わたしたちにあこがれ、わたしたちと一体になりたいと願っても、それは当然であり、それは学生の権利なのです。ですが、その逆、つまり、教員が学生に惚れる権利はありません。といいますのも、わたしたち教官は、あくまで、生徒学生を保護し、育成することをもう一つの義務としているからです。ですから、ファンはわたしたちに惚れるのは権利ですが、わたしたちはそれに応じてはならないのです。それを忘れて性的関係をもってしまうのは、自分の職責を忘れ欲望におぼれることと等しいといわれても仕方がありません。
 こうした権利義務関係にあって、教師と学生の間に、自由恋愛は存在しうるでしょうか。存在しうるかもしれません。でも、いつ、学生が「これはセクハラだ」と主張するかわかりませんし、そう主張されたら、教員は言い逃れができません。なぜならば、学生はアイドルである教員に恋をしただけなのかもしれませんし、そのことにいつ気づくのか、学生本人にもわからないことだからです。
 芸能プロダクション、つまり大学職員の人もアイドルとほぼ同じ立場にあります。よく、若い、別に若くなくてもいいのですが、アイドルのおっかけが、芸能プロダクションの人に取り入ろうとしますよね。芸能プロダクションに取り入れば、何かいいことがあると思っているからだけではないのですよ。アイドルの近くで働く人ということで、芸能プロダクションにもあこがれを持っているのです。かつて、はるか昔にそういう体験を共有した者としては、その感覚がよくわかります。

二次被害を回避するために

 こうしたことを理解していたとしても、つい、うっかりやってしまうのが、差別であったりセクハラだったりします。それだけ、わたしたちは無意識に差別し、支配してしまっているのです。よく聞く例は、「そんな格好をしているからセクハラにあうのだ」、「そんなに目くじらを立てて怒ることではない」、「離婚歴があるんだから、仕方がない」、「あの先生に限ってそんなばかなことはあるはずがない」などという言葉によるセクハラです。そんなことはしないとおもっていらっしゃる方も多いと思います。でも、いつ被害者に遭遇しても、きちんと対応できる人なんてそうそういるものではありません。突然そういう場面に遭遇して、無意識に言ってはいけないことを言ってしまうことなど、よくあることです。こちらから見れば、ただうろたえて言ってしまったうっかりしたミスであっても、被害者からみれば、ひどい侮辱だったり、セカンドレイプだったりすることがあります。多くのセクハラ訴訟、特に大学関係の訴訟では、最初の大学の対応がひどくて、それで被害者がどうにも我慢できなくなって、訴訟にまで持ち込まれるというケースがほとんどです。ある労働法の先生は、「あまりにひどいケースなので、わたしはもう黙っていることにした。そうすれば、話がこじれて、被害者が訴えると思うから」とおっしゃっていたことがありました。これもまた怖いですね。

 そこで、ぜひ、あとでロールプレイをしっかりやってください。簡単なものをここで少しだけやりますので、ちょっとご協力ください。

 「た、助けてください。教室でだれかに襲われました。」

もう一つ、「あのぉ、先生が、足をじろじろ見て、キモイんだけどぉ〜」 

 どうですか?突然こられると難しいでしょう。だから、練習が必要なんですよね。でも、このロールプレイは、練習のためにも重要なのですが、それ以外にも目的があります。つまり、当事者の立場に立つということはどういうことなのか、それを身をもって知ってほしいということなのです。SHの相談では、うっかりと二次加害を行ってしまいます。そういう場合、被害者はどんな気持ちになるのか、身をもって知ってほしいのです。あるいは、二次加害をしないよう配慮するとは、どんなに大変なことなのか身をもって知ってほしいのです。そうすることによって、コミュニケーションや相談のあり方もまた変わってくると思います。


展望を拓く・第三者機関について

 さて、最後になりましたが、機関についても簡単に触れておきたいと思います。最近、いくつかのセクハラの相談を受けました。うち1件は大学内の事例で、典型的なセクハラのケースなのですが、なぜか学内の機関はこれをセクハラとして受理しなかったそうです。もうひとつは、行政機関の問題でして、その機関内にある相談窓口はあまりに信用できません。また、わたしの抱えている別の悩みは、セクハラの解決がきっかけで、なんと学内派閥闘争が勃発してしまうということです。あるところでは、セクハラの当事者やその代理人が、相談員を恫喝して辞任させてしまったという例もありました。そういえば、わたしが被害にあったとして、愛媛大学の窓口に相談しようとも思いません。誠実に作られた機関であり、なおかつ誠実に働く先生がたによって組織されている機関であっても、同僚に相談に乗ってもらうのなんて、いやだな、きちんと聞いてもらえるだろうか、そう思ってしまいます。つまり、セクシュアル・ハラスメントに関しては、被害者の目からみるならば、学内での処理はとても難しいということなのです。

 これまで、厚生労働省も人事院もセクハラは、組織内で解決するように窓口の設置を指導してきました。でも、被害者やその支援者たちの目は、その限界を見ています。実際に、学外に問題処理の機関を設けてほしいという要望は、最近になってよく聞きますし、キャンパス・セクシュアル・ハラスメントについて活動しています、全国のネットワークでもそろそろそうした第三者機関設置の動きを見せ始めています。あるいは、大学の中には、相談窓口や調査委員会に外部の人、たとえば女性相談員を長年やってきた人や、NGO活動を行ってきた人などを参加させて、第三者性を担保しています。

そのように、第三者機関がこの問題を処理するようになれば、もはや、セクハラなんて知りませんとはいえなくなります。被害者やその支援者たち、あるいは、被害にあう可能性のある立場にある人々とその擁護者たちは、真剣に自分たちの権利を守ろうとしています。それに対応するには、やはり、大学としても、その中で働く教授職員としても、真剣に自らの行動について反省し、再考することが求められていると思います。


参考図書:沼崎一郎『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント対応ガイド』嵯峨野書院(2001年)


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